『ポール・サンチェスが戻ってきた!』
監督:パトリア・マズィ
出演:ローラン・ラフィット、ジタ・オンロ、フィリップ・ジラール
10年前に失踪した凶悪犯罪者・ポール・サンチェスが、プロヴァンス地方のレ・ザルクで目撃されたという噂が広まる。警察署では誰もそのことを本気にしなかったが、若い警官のマリオンは違った…。
アンスティチュ・フランセが、フランスのメディア(新聞、雑誌、テレビ局、ウェブ媒体…)、批評家、専門家、プログラマーと協力し、最新のフランス映画を選りすぐって紹介する特集「映画/批評月間~プランス映画の現在をめぐって~」。Vol.01では、フランス日刊紙「リベラシオン」紙の文化欄チームエディターの映画批評家ジュリアン・ジェステールとともにセレクションが行われました。
コミュニティシネマセンターでは、アンスティチュ・フランセ東京で上映された作品から、11本を厳選して、全国に巡回します。
SF、刑事もの、コメディ、アクション、青春、エロス…、新しい世代、あるいはベテランの作家たちが様々なジャンルに果敢に挑んでいるフランス映画の現在が見える作品群、近年、シネマテーク・フランセーズなどで特集が組まれ再評価の機運が高まっている知られざる映画作家ギイ・ジルの3作品、そして、2019年11月に惜しまれながら亡くなった映画批評家ジャン・ドゥーシェ氏についてのドキュメンタリー映画を含む、魅力的なプログラムです。
10年前に失踪した凶悪犯罪者・ポール・サンチェスが、プロヴァンス地方のレ・ザルクで目撃されたという噂が広まる。警察署では誰もそのことを本気にしなかったが、若い警官のマリオンは違った…。
大学生のマルゴーは、恋愛についても、将来についても進むべき道が見えず、成り行きに身を任せて日々を生きている。そんなとき、40代半ばの女性マルゴーと知り合う。全ての偶然が彼女たちを結び付け、自分たちがひとつの人生の異なる年齢を生きる同じ人間である事を知ることに……。現代を生きる女性たちが風変わりなシチュエーションに巻き込まれるラブ・コメディをコンスタントに発表してきたソフィー・フィリエールの長編8作目。監督の実の娘で、透明感のある美しさが魅力のアガット・ボニゼールとフランス映画界でもコメディエンヌとしての才能抜群のサンドリーヌ・キベルランがひとりの女性の20代と40代を軽やかに繊細に演じている。
共産主義の両親に育てられた30代のアンジェルにとって、現代社会は憤りを感じることばかり…。
活動家だった父は歳をとり、母は政治思想を捨て田舎へ移住。全てに行き詰ったアンジェルは、久々に母に会いに行くことにする。
デプレシャン作品などで女優としても活躍するジュディス・デイビスが政治と芸術とのつながりを実践させるべく、友人らとともに立ち上げた劇団〈L’Avantage du doute疑問を持つことのメリット〉で公演した作品を自ら監督・主演して映画化。低予算ながら、映画作り、政治参加への自由な発想が共感を得て、フランス翻刻でヒットし、批評的にも評価された。悩み、闘い、恋をするディビスの姿、そしてレオス・カラックスやフィリップ・ガレル作品で有名なミレーユ・ペリエが成熟した女性の魅力を存分に見せている。
ソフィア・アンティポリス、それは地中海と森と山の間にある不思議な場所。眩いばかりの陽光の下、男も女も生きる意味を、人と人のつながりを、自分たちが属する共同体を探している。そしていつのまにか彼らは失踪した一人の若い女性の運命と交錯していく。
20世紀初頭。良家出身の5人の少年が、ある日解放的な気分に魔が差して、卑劣な罪を犯してしまう。罪を償うため謎の船長に預けられた少年たちは、過酷な航海の旅へと連行される。密かに反乱を企てる5人だが、ある無人島に座礁すると、そこには快楽を与えてくれる幻想的な植物が生い茂り、いつの間にか欲望に溺れていく。やがて、少年たちの身体は次第に変異していき、ゆるやかにセクシュアリティーの境界線が溶けていく…。デジタルトリックに一切頼らない、驚くべき造形の美しさも見所のひとつ。
エティエンヌは大学で映画を学ぶため、パリに上京する。そこで映画への情熱を同じくするマティアスとジャン=ノエルと出会う。しかし、時がたつに連れ、彼らの抱いていた幻想が徐々に変質していき……。
パリの北西にあるレジャー・アイランドでのひと夏。ある者たちにとっては冒険、誘惑、ちょっとした危険を冒す場所。他の者たちにとっては避難、逃避の場所となっている。世界の喧騒とどこかで響き合いながら、この場所には有料の海水浴場もあれば、人目につかない片隅、あるいは子どもたちが探求する王国もある。
ジャン・ドゥーシェは50年以上前から映画批評家として世界中を旅してきた、映画についての伝道師、「渡り守(パサール)」である。その類まれなる知性、教養、ユーモアによって、映画作家や映画ファンたちに影響を与えてきた。ある晩、三人の仲間たちがドゥーシェと出会い、彼の話にすぐさま魅惑され、ジャン・ドゥーシェという謎も多い男との特権的な関係を持ち始める。
ジュヌヴィエーヴは恋人である水兵のダニエルと海辺の街ドーヴィルで落ち合い、愛し合う。ヴァカンスが終わり、ダニエルはブレストの駐屯地に、ジュヌヴィエールはパリに戻り、手紙を綴り、再会することを待ち望みながら、それぞれの生活を送る。ダニエルと同様にアルジェリア戦争からフランスに戻ってきた水兵、ギイの感情がふたりのそれと混ざり合っていく。ギイ・ジル自身が同名の「ギイ」役で出演しており、彼の人生が語られる部分が主人公ふたりの人生と響きあい、作品をポリフォニックな深みを与えている。
ジャンヌはかつての恋人ジャンを思い出し、今も彼との恋を生きている。ジャンは15歳で少年院に入り、既成秩序に反抗し、ブルジョワ的な世界もビート族たちの世界も拒否して死んでいった。彼の死を知らないジャンヌには、つねにジャンが亡霊のように寄り添っている。
チュニジア生まれで、母の死まで幼年期をその地で過ごしたピエールは、現在、パリのマレ地区、ロジエール通りに父親と住んでいる。突如、パリを離れる必要を感じたピエールはチュニジアの首都チュニスに向かう。そこでかつての教師に導かれ、自分の過去の形跡を辿っていくことになる。
1938 年、アルジェリアの首都アルジェ生まれ。子どもの頃より映画ファンで、20歳で13分の美しい処女短編『消された太陽』を監督、その後の作品で繰り返し描かれることになるテーマ、亡命、メランコリー、記憶の重さと現在への官能、不確かな未来、若者が率直に表明する感情などを発見することができる。アルジェリア戦争下の1960年、パリへ移住。ピエール・ブロンベルジェの援助により何本か短編を監督、その中の『Au biseau des baisers』を気に入ったジャン=ピエール・メルヴィルが資金の一部を援助して、初長編である自伝的作品『海辺の恋』を3年がかりで製作。撮影中、ジルの作品、そして彼の人生において重要な存在となるパトリック・ジョアネと出会う。『海辺の恋』は各地の映画祭で紹介され、1964年ロカルノ映画祭で批評家賞を受賞。長編2作目『オー・パン・クペ』(67)は、主演の女優マーシャ・メリルが自ら製作会社を設立して実現。マルグリット・デュラスらから賛辞の言葉が寄せられた。3作目『地上の輝き』(69)はイエール映画祭グランプリ受賞。4作目『反復される不在』(72)はジャン・ヴィゴ賞を受賞した。これら初期4作品は一部の批評家からは評価されたが、興行的にはまったくあたらず、困難な製作状況へ追い込まれる。ようやく発表したデルフィーヌ・セイリング、サミー・フレイ、ジャンヌ・モローら出演の『Le Jardin qui bascule』(74)は、ジルにとって特別な存在であった女優モローが歌うシーンなど、魅力溢れる作品となっている。1987年一人の男が夜の街を徘徊する『夜のアトリエ』は、ジルにとってかけがえのない存在だったパトリック・ジョアネとの物語に終止符を打つ感動的一作。テレビ作品やドキュメンタリーも多く手がけており、その中にはジルにとって重要な二人の作家であるマルセル・プルーストとジャン・ジュネについてのドキュメンタリー『プルースト、芸術と苦悩』(71)『聖人、殉教者、詩人』(75)がある。また、壊されて行く街の小さな映画館にオマージュを捧げた『シネ・ビジュ(映画=宝石)』 (65)も貴重なドキュメンタリーである。
日刊紙での映画批評の体験や仕事を成す一年のうちの様々な行事の中で、年末になって映像と音との12ヶ月に及ぶ出会いからどのような驚嘆が残っているのか振り返り、作品のリストを作成するという恒例の行事は、遊び心をくすぐることは否定できずとも、もっとも刺激的な作業とは言いがたい。しかし一年を振り返りながら、一人の観客の好み、あるいは集団の好みを序列化し、選別し、考えを明確化し、作品を挙げていくことは、遅まきながら発見することがあるという利点があり、それは毎週、次からと次へと公開される映画の流れの中では同じような明白さでは感知できないような発見であるだろう。たとえば「リベラシオン」紙では、過去一年から20本のベスト作品をリストアップする時になって、2018年がフランス映画にとっていかに驚くべき、特別な一年であったのかが、あらためて明らかとなったのだ。我々「リベラシオン」の映画批評家たちによって選ばれた20本のベスト作品の内まさに8本がフランスで製作された作品であり――実際それ以上のフランス映画が選ばれてもおかしくなかった――今回、アンスティチュ・フランセ日本から提案を受け、セレクションした本特集のプログラムを見ても、フランス映画の盛り上がりが突如明白になったことが強く感じられるだろう。
フランス映画は、ここ何年か、製作資金の問題もありあまり力を奮わず、形式の面でも、テーマにおいても、使い古されたものが多く、狭いところに留まっているとしばしば批判されてきた(そしてそれはあながち間違ではなかった)。しかし、そうしたフランス映画を牽引してきた女性監督の何人かは、斬新で、偉大な作品を発表し、彼女たちの豊かなフィルモグラフィーにさらなる奥行きを与えている。たとえばクレール・ドゥニは、その素晴らしい新作『ハイ・ライフ』に、ロバート・パティンソンとジュリエット・ビノシュを載せ、宇宙に旅立ち、しかも英語で撮るというあらたなる冒険に出ている。そしてパトリシア・マズィはその予測不可能な『ポール・サンチェスが戻ってきた!』にて、かつて撮られていたフランス映画の刑事ものからラオール・ウォルシュの西部劇を思わせるような作品へとあえて漂流している。またソフィー・フィリエールは、ギャグによってラブ・コメディの規範を覆し、形而上学的眩惑にまで至らせる『20年後の私も美しい』によって、これまででもっとも自由奔放な作品を生み出している。
しかし 昨年の間に自分たちのアートの頂点をはっきりと示すことができた他の映画作家たち―-その中で、アブデラティフ・ケシシュ、クリストフ・オノレ、ヤン・ゴンザレス、セルジュ・ボゾンなど、何人かの作家の作品の上映が叶わなかったにせよ――、彼らの作品を挙げるとしたら、フランス映画が並外れた才能を持つ新たな世代が誕生する素晴らしい土壌となっていることをとりわけ述べる必要があるだろう。そして今回の特集にて日本初上映となる作品の中でももっとも注目すべき作品の多くが、若い世代の監督たちによるものであり、それもほとんどが処女作であることも強調すべきだろう。それぞれがピリピリとするような強烈さを放ち、使い古されたフランス式自然主義の枠を超え、通常のフランス映画であれば舞台とならないような場所(『シェエラザード』のマルセイユの娼婦街、『ブラギノ』のシベリアに広がるタイガ、あるいは『ソフィア・アンティポリス』のコート・ダジュールの奇妙なテクノポールなど)を占拠し、あいも変わらぬイニシエーションの物語を語り続けよとする教えを根本的に刷新している。それはあたかも、神話の過剰さに挑んでいるかのようだ。神話はあるときは犯罪ものであり(驚くべきジャン=ベルナール・マルランの『シェエラザード』はデパルマとパゾリーニの間にある)、あるときは崩壊学(コラプソロジー)であり(執拗なほど心につきまとってくる『ソフィア・アンティポリス』はブレッソンとボードリヤールの間にある)、あるときは冒険ものであり(超=官能的トロピカルな世界を描くベルトラン・マンディコの『ワイルド・ボーイズ』はウィリアム・バロウズとジュール・ヴェールの間にある)、あるときはビデオゲーム化されている(キャロリーヌ・ポギ&ジョナタン・ヴィネルの『ジェシカ』は『マッド・マックス 怒りのデス・ロード』と『メタルギアソリッドV』の間にある)。
「我々にとって重要な映画は抵抗している」と昨年開催された「カイエ・デュ・シネマ週間」の紹介文にてニコラ・エリオットは記している。現在の若手監督たちが撮ったこれらの作品は、まさに高い志や独特な想像力によって、使い古されたコードや時代が強いる陰鬱な運命にはっきりと抵抗を示していると言えるだろう。